実は私、今年3月に東京での仕事をやめて、出雲の実家に帰ってきました。
54歳、独身、無職(のようなもの)。
今日は80才になる母を手伝って、サツマイモの苗を200本ほど畑に植えました。
あの~、それと人脈とか仕事運とか、いったいどんな関係があるんでしょうか?
まぁまぁ、「慌てる○○は貰いが少ない」ってことわざ、聞いたことないですか?
もしかするとあなたのその「短気」が今の「損気」につながってるのかもしれませんよ。
「急がば回れ」とも言うでしょ。急いだところで、人とぶつかるのが関の山。でも、私みたいに回り道や道草を楽しんでいると、どこにでもある石だと思っていたものが、ダイヤの原石だったって気づけるんです。
金運
私はこれまでお金に困ったことがありません。今後お金に困るとも思いません。
多額の貯金があるとか、家に財産があるというわけではありません。将来、山や田畑なら相続すると思いますが、そこに生えてる樹木にしろ野菜にしろ、売って儲けが出るものでもないし、田舎なので、土地そのものにもほとんど価値がありません。
強いて言えば、家があるおかげで雨露をしのぐ場所はあるし、畑や裏山で取れる野菜や山菜のほかに、近くに海もあるので、魚でも釣ってくれば、食べるものに困ることもありません。
要するに、自給自足みたいな生活だから、お金に困らないってことですか?
相変わらず、話がタイトルの金運とつながらないんですけど…。
だから、焦らない、焦らない。覚えてますか?「急いては事を仕損じる」です。
確かに、環境的に恵まれてるのは事実ですが、私がお金に困らないと思うのは、無駄に思える回り道すら楽しめるおかげで、ダイヤの原石、つまりいずれ私を輝かせてくれるかもしれない人たちと出会える可能性が高いからです。
仕事運(体験談)
私は過去32年間、ずっと教育関係の仕事をしてきましたが、1つの職場で同じ仕事をしてきたわけではありません。
仕事1:公立高校の英語教諭
大学を卒業して最初にした仕事は、島根の公立高校で英語を教えることでした。当時まだ「いい子ちゃん」だった私は、親の希望に沿って教員試験を受け、運悪く受かってしまったので、うちから1時間くらいの学校に赴任することになりました。
(「運悪く」と書いたのは、「親の顔を立てて試験を受けたけれど、落ちてしまえば、親もあきらめがつくだろうし、これで心置きなく、内定をもらっている都内の翻訳会社に入れる」と踏んでいたからです。一次のペーパーテストは、プライドに邪魔されていい点を取ってしまったはずですが、二次の面接では落ちるようにかなり辛辣な発言をしたので、落ちたものとばかり思ってました。誤算でした。逆にその根性を見込まれて、20年間新卒の女性教諭を送るのを控えていたという、ちょっとクセの強い学校に派遣されました。)
とにかく、そこには1年しかいませんでした。大学に戻って日本語教師になることにしたからです。
実際、都内の翻訳会社に入りたかったのは、そこならより多くの外国人と交流できると思ったからで、もともと教えるのは好きでした。とりわけABCすら怪しかった生徒に課外授業をした結果、その子が期末テストで80点を取るようになり、英語キャンプにまで参加するのを見た後では、何を教えるかに関係なく、教師こそ天職かもと思うようになりました。
仕事2:公立高校の常勤英語講師
大学に戻るといっても、地元ではなく、日本語教育で有名だったつくばの大学にいきたい。けれど1年働いただけでは資金が足りない。
やめると宣言したのが遅かったので、茨城の教員採用の時期はとっくに終わっていました。とりあえず行けばどうにかなるかなと思っていたら、教えていた高校の教頭先生(大学の後輩のお父さんで、英語教諭も兼任)が、ツテを駆使して茨城の公立高校に常勤講師の職を見つけてくれました。
茨城の学校での勤務1日目。
年度末ぎりぎりだったにもかかわらず、どうして私が仕事の口を手に入れられたのかよくわかりました。地元の肝っ玉母さんのような家庭科の先生と、剣道の有段者の保健室の先生が、もうひとりの英語講師の先生も一緒にお昼ごはんに誘ってくれて、「校内ではひとりになるな」と助言をくれました。
「てめぇ、チクったら、ぶっ殺すぞ!」
テラスでたばこを吸っている生徒を見つけた時に言われたセリフです。
別の生徒は、鎌で先生を追い回して停学処分を受けていました。
仕事3:学習塾のバイト講師
無事に1年を生き延び、資金もたまったので、大学に科目等履修生(大学には入学せずに、特定の科目だけほかの学生に交じって履修し、単位を取得することができる学生)として登録しました。
ただ、資金はもっとあっても困りません。先ほどの高校で一緒に英語講師をしていた先生の紹介を受け、彼女の友人が営む学習塾で、小中学生に算数と数学を教えるバイトを手に入れました。
もっとも、学習塾と言っても、儲けは二の次、三の次。
もともと「ジャズピアノの勉強がしたい」と渡米したけれど、英語学校に通うだけで資金切れとなり、無一文で帰国した友人を助けるためだけに、自宅を開放して作られた塾です。
おそらくこの友人という人が、私を引き受けてくれたのも、半分慈善事業的な気持ちがあったからではないでしょうか。夜8時過ぎに塾が終わると、毎回手料理とコーヒーまでごちそうしてもらえるおいしいバイトでした。
仕事4:国立研究所の翻訳のバイト+民間企業でのデータ処理の補助のバイト
昼間は大学、夜は学習塾の生活を続ける中、大学の授業の甲斐もあって、日本語教育能力試験に合格したので、日本語教師の仕事を探しはじめました。けれど私程度の経歴や資格を持つ人はごろごろいます。
国内ではちょっと怪しげな日本語学校しか就職できそうになかったので、その話を同じ授業を取っていた大学生にしたところ、わずかですが生活手当の出る、日本語教師派遣プログラムの情報をくれました。
試験に合格し、アメリカの高校で日本語教師の助手をすることにはなったものの、出発は向こうの新学年度に合わせて7月。約3か月昼間することがありません。
大学の掲示板でバイト情報を見てみると、国立研究所で研究論文の翻訳者を募集していました。
そこで最大3か月しか働けないということを理解してもらった上で、翻訳のバイトを始めましたが、期限は2か月限定。
採用してくれた人が、「2か月限定にすれば、時給を上げられる。最後の1か月分も、研究所と同じ金額に時給を上げてもらう条件付きで、民間企業に紹介するから」と、結果的に至れり尽くせりの対応をしてくれました。
仕事5:アメリカの公立高校の日本語教師助手
私が参加した日本語教師派遣プログラムでは、参加者は交流ビザをもらってアメリカに滞在していました。ビザの期限は2年で、延長は不可。さらにその後2年間、アメリカ国内でワーキングビザを取るのも禁止でした。
仕事は平均1日4時間、アメリカ人の日本語教師(正規採用の教員)の補助をすることです。
1年が過ぎ、仕事にもアメリカ生活にもすっかり慣れたころ、アメリカに来る直前までお世話になっていた塾のお子さん(小学6年生の女の子)が、私の紹介で同じく慈善事業の対象になっていた友人(とその兄弟)に連れられて、私のところにやって来ました。
滞在期間はわずか2週間ほどでしたが、私はツアーガイド兼ホームステイ先のおばさんとして、茨城での恩返しをさせてもらいました。
2年目の半ばを過ぎるころには、英語も上達したし、このプログラムに参加したおかげで、例えばインターナショナルスクールで日本語教師の仕事に就けるかも、と考えていました。
けれど、同じ派遣プログラムから同じ学校に派遣されていた都内の大学の4年生(大学を休学して参加していました)の応募には一次選考通過の返事が来るのに、私には「残念ながら」という返事ばかりです。
契約満期が近づいているというのに、帰国後の就職のめどは全く立っていませんでした。
そんな時、一緒に教えていたアメリカ人教師が、日本との国際交流・ホームステイプログラムに使える奨学金を手に入れました。ただし、日本での受け入れ先は自分で見つけなければなりません。
早速私の地元に連絡を取り、教師3名、高校生12名を受け入れてくれるホスト校とホームステイ先を手配しました。
こうして帰国から約1か月半、収入こそなかったものの、国際交流プログラムのコーディネーターとしての経験を積むことができました。本当にアメリカ人教師様々です。
仕事6:小規模学習塾経営+私立高校の非常勤英語教師+外国人英語助手の個人日本語教師
アメリカ人グループを送り出し、一息ついていると、近くの私立高校から電話がかかってきました。
「新聞で交流プログラムの記事を見たんですが、今、英語の非常勤講師を探しておりまして…」
田舎では世間を揺るがす大事件などめったにありません。ホスト校の校長に頼まれて、地方紙のインタビューに答えたことが、次の仕事を呼び込みました。
さらに、新しく務めた学校にいたカナダ人の英語助手が、私が日本語教師だと知るやいなや、「別の学校で英語助手をしているカナダ人夫婦が日本語のプライベートティーチャーを探してるんだけど」と、続いてそのカナダ人夫婦が、アイルランド人、イギリス人、オーストラリア人、アメリカ人と、次々に日本語を学びたがっている英語助手の友人を紹介してくれました。
同じころ、近所に住む小中学生の親御さんから子供に英語を教えてほしいと頼まれました。どうせやるなら英語に限らず、国語も数学も、と自宅の一部屋を学習塾として使うことにしました。
口コミで増えた生徒の中には、不登校の子もいましたし、親の離婚問題で荒れている子もいました。そして気づいたときには、子供たちに勉強を教えるだけでなく、その親御さんたちのお悩み相談係になっていました。
仕事7:県立病院小児科部長の個人秘書
塾の仕事も日本語教師の仕事も夕方から夜にかけてだったので、昼間は結構暇でした。その話を非常勤講師先の高校の職員室でしていると、看護師の奥さんのいる同僚が、「病院で個人秘書のバイト話があるんだけど」と声をかけてきました。
週に2日、1日2時間程度、小児科部長の部屋で、本や書類の整理をするだけという話でしたが、2-3回通っただけで整理は終わり、その後は秘書というよりも「あの手紙、ちゃんと返事出しました?」と先生をせっつくか、同じ部屋にいた産婦人科部長も一緒になってお茶を飲みながら話をするという給料泥棒になりました。
病院の新家屋建設に合わせて準備中だった診療科の表示を、日本語を教えていたネイティブの手を借りて英訳したのが、唯一給料に見合った仕事だった気がします。
仕事8:米軍基地内にある小学校の日本語・文化教師
定職に就くのと違い、4つの仕事の掛け持ちは、単調さとは無縁の毎日を与えてくれますが、安定性や将来性に欠けます。
今後どうしようかと思い始めたころ、日本語教師派遣プログラムで知り合った友人が、
「結婚が決まって、引っ越さないといけなくなったから、仕事辞めるんだけど、興味ある?」
と連絡してきました。
これぞ渡りに船と、面接を受け、(諸事情から友人の教えていた学校ではありませんでしたが)、横須賀米軍基地内の小学校で日本語・日本文化を教えることになりました。
横須賀基地の学校では12年ほど働きました。
その間、太平洋地区の基地にいる高校生を対象にしたSTEM系のプログラムに毎年関わるようになりました。日本語・日本文化教師の職に応募した際、面接官をしていた上司が、私の履歴書の中に「つくば」の文字を見つけ、そこがプログラムの開催地だったことから、役に立つと思ったそうです。
研究学園都市「つくば」には、私がバイトした研究所も含め、STEM関係の研究所が数多くあります。約1週間のプログラム期間中、およそ30人の生徒たちをそういった研究所のいくつかに連れていく、その前に実習・見学の予約を取り、打ち合わせをするのが私の役目でした。
仕事ではありませんが、そのころ翻訳コンテストで入賞し、賞金と、副賞として共同翻訳者になった短編小説集からの印税が入りました。
大学卒業時に翻訳会社に就職しようとしていたぐらいですから、翻訳には以前から興味をもっていました。けれど、アメリカで同じ交流プログラムに参加していた友人に誘われていなければ、入賞どころか、そんなコンテストがあることすら知らなかったはずです。
私が海外ミステリー中毒だと知っていた友人に「自分の翻訳を読んで感想を聞かせてほしい」と頼まれ、すっかりいい気分になってやったことが、まさか臨時収入につながるとは思ってもみませんでした。
さらに、翻訳に関してはコンテスト以外にもう1つ話が。
私が勤務していた小学校には日系の児童や、親がアメリカ人と再婚したので、突然日本の学校から転入することになった、英語の全くできない児童が何人もいました。加えて、その保護者の中には言葉よりもボディランゲージで愛を育てたために、英語がよくわからない方もかなりの割合でいらっしゃいました。
アメリカンスクールには通常ESLのクラスがあり、専門の教師が英語の苦手な(またはまったくできない)児童の学習をサポートします。
しかし、例えば日本で生まれ育った児童が、初めてアメリカンスクールに来た場合や持病がある場合、感染症などの病気になった場合は、医療分野の話なので、アメリカ人の保健室の先生が保護者とのコミュニケーションに駆り出されます。そして、ほぼ100%保健室の先生は日本語がわかりません。
結果、日本人教師が書類の翻訳作業を任されました。勤務1年目は1件1件対応していましたが、その度に専門用語を検索するのは面倒です。
思い立ったが吉日とばかりに、以前お世話になった小児科部長にお願いして、ワクチンや感染症、子供のよくかかる病気などの対訳リストを送ってもらいました。
仕事9:日本語・日本文化プログラムの指導主事
定年後も70歳まで仕事を続けていた上司が、遂に仕事をやめる決心をした時、なんと後釜に私を押してくれました。ちょうど同じ仕事の繰り返しに飽きがきて、仕事を変わろうかと思っていたので、話に乗りました。
横須賀基地から横田基地に変わり、仕事の内容も日本語・日本文化の先生たちに、指導に役立つ教材や助言を与えたり、研修をしたりすることに変わりました。
また、コーディネートする国際交流プログラムやイベントの数と規模が拡大し、さらには学校を始め、教育事務所の管轄下で働く日本人従業員とその上司たちの相談窓口となって、人事課や雇用課と密に連絡を取り合うことも職務内容に追加されました。
仕事10:現在の仕事?
ようやく現在にたどり着きました。最初にお話ししたように、前職をやめてからそろそろ2か月になろうとしています。
コロナ禍のせいで、失業や減給の憂き目にあっている人が多い今のお仕事事情からすると、「何で仕事を辞めたの?」と思われるかもしれません。けれど、私が仕事をやめたのは、実はコロナ禍のおかげです。
コロナは人を選びません。年齢も性別も人種も血液型も、これまでどれだけ善行を積もうが、悪事に手を染めていようが、そんなことに一切関係なく、コロナに感染性して亡くなる人、後遺症に苦しむ人がいます。
もしかすると「明日は我が身かも」と考えた時、今すぐ人生の中で本当にやりたいことを始めるべきだと、私は悟りました。
人生の中で本当にやりたいことーそれは生まれ育った出雲の地で、誰もが学び合い、笑い合えるようなコミュニティサロン「まなまなサロン」を開くことです。
今やっている仕事とも呼べないような3つの活動は、一見バラバラに見えますが、すべてこの「まなまなサロン」の設立と運営という目標でつながっています。
ウエブサイトの開設:「まなまなライフ」「まなまなCraft」
始めは退職金を使って、サロン用の建物を準備すればいいと思っていましたが、それでは運営資金や維持費が心もとないので、収入を得られるだけでなく、サロンの宣伝にもなるいい方法はないものだろうかと考え、「まなまなライフ」のサイトを立ち上げました。
アフィリエイトの登録を済ませ、あとは広告をバンバン貼って、広告料を…という計画は、検索に記事が載らないという問題(SEO)を前に、あえなく皮算用に終わりました。
こうなったら、何としてでもSEO対策をしなくては!
けれど、どれだけ対策記事や専門用語の解説を読んでも、一向に効果的な対策法が見つかりません。
追い打ちをかけるように、「Amazon様へのアフィリエイト提携の申請が否認されました」と通知が来ました。超ポジティブな私もこれには一瞬へこみましたが、負けず嫌いな性格のおかげで、チャレンジ精神に火が、というより火がついていたところにジェットエンジンが投入されました。
その勢いで、さらなる対処法の検索を続けていると、知らない東京の番号から電話がかかってきました。
「まなまなCraftに関するご提案の件で、お電話差し上げたんですが…」
実は、ブログ用のサイトのほかに、サロン用の収入を得るためと、サロンが軌道に乗った後、そこで作られた作品を売るために「まなまなCraft」というネットショップも開いていました。
「今はブログのSEOに集中したいんだけど」と思いながらも、「気分転換にもなるし、とりあえず話だけでも聞いてみるか」と、いささか失礼な態度で対応していると、「SEO」という言葉が!
「はい、私どもはカラーミーショップ様と提携しております、WEBコンサルティングをトータルにご提供する会社です」
もともと「まなまなCraft」は「まなまなライフ」内に開く予定でしたが、設定を始めてすぐに、その時点の私のIT関係の知識レベルでは、一からサイト内にお店を開くのは無理だと判明し、代わりに「販売手数料0円のカラーミーショップ」のネットショップ作成サービスを利用して、お店を開いていました。
期せずして届けられた救いの手をがっしりとつかみ、「今でしょ」とばかりに私は現状をまくしたて、SEO関連の質問を浴びせました。それもショップについてではなく、ブログについて…。
救いの手の持ち主は、1つ1つ丁寧に質問に答えてくださっただけでなく、私の書いた記事まで読んでくださいました。
当然の結果として、両方のウエブサイトのSEO対策に、その会社と(私の気持ちの上では救いの手の持ち主と)正規料金の半分の値段で2年契約を結びました。今抱えている問題を丸投げできるだけでなく、長期的に見て、そのほうが利益が上がると計算したからです。
農作業
「まなまなサロン」の活動には、室内で行うワークショップだけでなく、田んぼや畑、海や山での体験学習も含まれます。
「引きこもりや不登校になった子供たちに、人と自然と触れ合いながら、生きていくすべを身につける機会と場所を提供したい」
「子供の教育に従来の学校教育とは違う形の学びの場を、と願う保護者の方々を助けたい」
\このブログがお役に立ったなら/
不登校児童・生徒の居場所にもなる、年齢も性別も国籍も種族(?)も超えた人たちが集まって、互いに学びあい、喜びや楽しみを分かち合えるコミュニティサロンの設立・運営にご協力をお願いします。
「まなまなサロン」にはそんな思いも込められています。なので、田畑でする仕事は、農作業というよりも体験学習の場を用意していると言えるでしょう。
人脈に恵まれる可能性テスト
ここまで私の仕事と人脈についてのお話を読んでもらいましたが、どうすれば人脈に恵まれるかわかっていただけましたか?
下の該当する答えを選んでクリックすると、今後人脈に恵まれる可能性がどれだけあるかわかりますよ。
はい、わかりましたと答えた方
おめでとうございます。今後人脈に恵まれる可能性大です。「私が人脈に恵まれるわけ」に具体的な提案がありますので、ご確認ください。
いいえ、わかりませんと答えた方
残念ながら、今のままのあなたでは、今後人脈に恵まれるとは思えません。「私が人脈に恵まれるわけ」をチェックして、何をどう変えればいいか参考になさってください。
私が人脈に恵まれるわけ
仕事と人脈の話の中に、いくつか太字の文章がありましたが、可能性テストで「はい、わかりました」と答えた方は、おそらくそれらの共通点に気づかれたことと思います。共通点は2つ。1つは「私がしたこと」、もう1つは「私がしてもらったこと」です。
もしあなたが「私がしてもらったこと」を見て、「大したことしてもらってないじゃん」と思うのであれば、今後も人脈には恵まれないでしょう。というのも、大小にかかわらず、他人がしてくれた厚意に感謝の気持ちが持てることこそ、人脈を作るための第一歩なのです。
さらに言えば、厚意を受けたかどうかにかかわらず、常日頃から親切を心掛けることも大切です。
もしかするとあなたの親切に対して、すぐに見返りがあるとは限りませんし、親切にした相手から直接もらえるではなく、別の人を通じてもらうことになるかもしれません。実際、必ず見返りがあるとも限りません。
そして忘れてならないのが、見返りを期待した時点で、あなたの行為は親切とは呼べない利己的なものになってしまっているという事実です。
これまであなたが人脈に恵まれなかったのは、運が悪いからではなく、利己的だったからではないですか。
もう1つ、私が人脈に恵まれたのは、一直線の高速道路を走る代わりに、一見無駄に思える寄り道や回り道をふらふらと歩きながら、しっかりと周りに目を向けていたからだと思います。
人脈を得たいと思うのであれば、無駄を大切にしてください。
時には立ち止まることも必要ですが、歩みを止めるのは、ぼやいたり嘆いたりするためではなく、次に向かう先を見極めるためだけにしてください。
人脈に恵まれるための最終手段
「最後まで読んだけれど、自分にはまったく役に立たない提案ばかりだった」という方に、お詫びと言ってはなんですが、もう1つ最終手段を提案させてください。それは、
「困った時の神頼み」
です。私の地元には縁結びで有名な出雲大社があります。
「信じる者は救われる」
ぜひ出雲大社に参拝して、男女の縁に限らず、仕事面でも良縁に恵まれるよう祈ってください。