使わないものって、捨てないとダメですか?
まだ使えるのに捨てるなんてもったいないし、趣味の手芸の材料になりそうなものとか、思い出の品とか捨てたくないんですけど、家族が「邪魔だから捨てるように」ってうるさくて。
このままだといない間に勝手に捨てられてしまいそうで、怖くて旅行にも行けません。
私も相談者さんと同じで、特に書類や本といった印刷物は捨てることができません。
なので、実家に帰ってきて以来、捨てたくない私と断捨離にはまっている母との間でバトルを繰り広げていましたが、最近になって遂に母を黙らせることに成功しました。
不用品vs歴史資料・遺物
みなさんは明治時代の卒業証書を見たことがありますか?
最初の小学校令
明治十八年に文部大臣となった森有礼は、就任後、ただちに教育制度全般の改革に着手したのであるが、特に諸学校の基礎となるものとして小学校制度の改善に意を用いた。十九年四月十日公布された小学校令は、森文相の計画した教育制度全般に対してその基礎を築いたものというべきである。それは森文相の独自な小学校制度に関する見解によって立案・整備され、簡潔な様式をもって制定された。すなわちこの小学校令はわずかに十六条から成り、各条項は小学校の設置・運営に関する基本事項を定めたものであった。小学校令に引き続き、まもなく同年五月二十五日に「小学校ノ学科及其程度」を公布して、小学校の編制・修業年限・学科・児童数・教員数・授業日数および各学科の要旨を掲げて小学校教育の内容に関する基準を示した。「小学校令」および「小学校ノ学科及其程度」によって当時小学校制度の改革がどのような方法によって進められたかを知ることができる。
小学校令によると、小学校を尋常・高等の二段階とし、修業年限は各四か年とした。就学義務の学齢は六歳から十四歳に至る八か年で、父母・後見人は尋常小学校四か年を修了するまでは児童を就学させる義務があるとした。小学校の一学級生徒数についても規程を設け、尋常小学校は八〇人以下、高等小学校は六〇人以下とした。小学校の経費は主として生徒の授業料と寄付金によることとし、もし不足のときは区町村会の議決によって区町村費から補足することができると定めた。また簡易な初等教育を施す制度として小学簡易科の設置を認め、これをもって尋常小学校に代用できるものとした。これは十八年改正の教育令における小学教場に相当するもので、当時の地方財政の窮乏に対処したものである。そして小学簡易科の経費は区町村費をもって支弁し、授業料を徴収しないこととした。
文部科学省「学制百年史ー小学校令の制定」
実はうちにある書類のほとんどは亡くなった祖父がため込んでいたものです。
第2次世界大戦に看護兵として従軍していた祖父は、毎日日記を欠かさず、それをわざわざ戦地から実家に送るほど、書類の類を大切にする人でした。夫の身を案じていた祖母からすれば、中を見た途端、「こんな何の役にも立たないものじゃなくて、もっと違うものを送ってこいよ!」と突っ込みたかったことでしょう。
実際、戦時中祖父のことを心配した祖母は、1度近所の奥さんたちと連れ立って隣町の拝み屋(霊媒師や占い師のような人)のところに行ったそうです。その時「お宅のご主人は戦争から無事に帰ってくるが、年を取るにつれて腹が立つくらい頑固になる」と言われたらしいのですが、祖母曰く「ほんと、その通りになった」と。
話をもとに戻すと、その「何の役にも立たない」祖父の日記は、後に大いにある人の役に立つことになりました。
近隣の町役場が火災に遭い、従軍の記録がすべて灰になったせいで、祖父の知り合いのひとりが軍人恩給をもらえなくなったときのことです。
その人は祖父と同じ部隊に所属していたわけではありませんでしたが、戦地でたまたま祖父と出会ったことがありました。祖父はその時のことを「○月✕日、A町出身のB氏とCにて会う」と詳細に日記に記していました。あくまでも私文書でしたが、結局その日記のおかげで、B氏は再び軍人恩給をもらえることになりました。役に立たないどころの話ではありません。
とにかく祖父はありとあらゆる文書の類を取っておく人でした。中には自分の小学校の成績表もあり、そのコピーは町の百年史の中にも資料として載っています。
さらについ最近、祖父の父親(私にとっては曽祖父)ほかの明治時代の小学校の卒業証書が出てきました。今から133年も前のものです。それが母が不要と見なし、荷物の箱詰めに使った古新聞の中から出てきました。
荷物を受け取った相手がふと古新聞の中を見ようと思い立っていなければ、間違いなく可燃ごみになっていたはずです。
この一件以来、母は何であれきちんと中を確認してからものを捨てるようになりましたし、それより何より確認が面倒でものを捨てるペースが格段に落ちました。
要するに「断捨離!」を訴える人を黙らせるには、何の価値もないように思える私文書にすら、将来歴史資料になる可能性があることを認識させればいいのです。
文書以外のものについても同様です。数十年もすれば立派なアンティークです。ましてここ数年の断捨離ブームで中途半端に古いものがどんどん失われているので、残しておけばかなりの金銭的価値が生まれるのではないでしょうか。
再び話がそれますが、私は子どもの頃、マヤ・アステカ・インカ文明をテーマにしたアニメを見て、考古学者になりたいと思っていました。その時は母に「考古学者には社長の息子しかなれない」とだまされ、あっさり夢をあきらめましたが、古代文明や遺跡への興味はいまだに持ち続けています。
私がものを捨てられないのは、もしかすると千年後の考古学者に私や私の生きた時代についての証を残したいからなのかもしれません。
結論としては「捨てたくないものは捨てなくてもいい」です。
あなたがため込んでいるものには歴史資料として、またはアンティークとしての価値があります。
ご家族には堂々と「自分には先見の明がある」と宣言してください。
それでも抵抗された場合は、「処分するのは自分が死んだ後にしてくれ」と言いましょう。「今出せばゴミだが、自分が死ぬ頃にはきっと希少価値が高くなっているから」と付け加えるのも忘れずに。
それでもご家族のみなさんが長期的視点で物事を捉えることができず、大切な品々を捨てるように迫ってきた場合は、とりあえずため込んでいるものに目を通し、2つに分類しましょう。
①思い出の品や私的なもの、あなたが取っておかないと世の中から消えてしまいそうなものと②それ以外の2つです。
最悪、②についてはあきらめることも覚悟してください。
また、趣味の手芸用に取っておいた材料は、いつか使うのではなく、今すぐ使い始めましょう。さらにリサイクルによって新しく生まれ変わった作品を売ることができれば、ご家族ももう文句は言わないでしょう。
あるいは手芸のせいで一時的にせよ余計に家の中が散らかれば、ご家族も「こんなことなら、何も言わなければよかった」と後悔してくれるかもしれません。
ちなみに我が家のみならず、日本の(何と大げさな!)学制史資料となった明治時代の卒業証書は、これ以上染みや傷みがひどくなる前に額装したほうがいいように思います。今後引越しの予定もないので、引っ越し屋になくされることもないでしょうし…。